前回からのつづき・・・
シルクロード地図A:河西回廊と3つのルートを示した地図
出典:
https.://www.kaze-travel.co.jp/blog/silkroad_kiji056.htm
シルクロード地図B:敦煌からの3ルート拡大地図。楼蘭へのルート表示あり
出典:
https://www.artm.pref.hyogo.jp/2002-08old/exhibition/t_0508/p3.html
③西域南道(さいいきなんどう)
上記
シルクロード地図A:黄緑ラインのルート。
シルクロード地図B:濃赤ラインのルート。
タクラマカン砂漠と崑崙(こんろん)山脈の間を
タクラマカン砂漠の南縁に沿うようにして通るルートで、
敦煌を出発点として、ここから、
さまよえる湖、ロプ・ノールの北側を通り、
今は消滅して存在しない楼蘭を経由して
タクラマカン砂漠の南縁に出るルートか、
または、敦煌から阿克塞(アクサイ)に向かい、
峠を越えてタクラマカン砂漠の南縁に出る
ルートのどちらかを通り、
砂漠の南縁に沿うようにして
点在しているオアシス都市、
米蘭(ミーラン)、若羌(チャルクリク)、
且末(チャルチェン)、民農(二ヤ)を通って、
和田(ホータン)、莎車(ヤルカンド)などをたどり、
喀什(カシュガル)に抜けるルート。
7世紀に、孫悟空で有名な西遊記に登場する
三蔵法師(玄奘三蔵)がインドから帰る際に
このルートを使用している。
また、13世紀に元を訪れた、マルコポーロも
喀什(ガシュガル)からこのルートに入り
敦煌に向かっている。
このルートはウイグル文化が色濃く残っていて、
崑崙山脈の南側にあるパキスタン、チベット、インド
との文化的なつながりも強い。
今ではこのルートに沿って鉄道が設されていて、
2011年には喀什(カシュガル)から
和田(ホータン)まで、
喀和線(かくわせん)が開通している。
喀什(カシュガル)
西域南道、天山南路の西の端、
喀什(カシュガル)はオアシス都市。
古くからシルクロードの重要な町として
栄えてきた。今も昔も交通の要衝で
周辺の国への玄関口となっている。
漢民族が住む新市街と
ウイグル族が住む旧市街とにわけられるが、
旧市街地は再開発が行われ、
シルクロートらしい雰囲気を味わえる。
郊外には神秘の湖と呼ばれる、
青い湖、白い山、青い空の
コントラストが絶景のカラクリ湖がある。
和田(ホータン)
西域南道最大のオアシス都市、和田(ホータン)。
かつては仏教が栄えていたが、
現在はイスラム文化が主流となっている。
マルコポーロの「東方見聞録」の中で
ホータン周辺の玉についての記載が残されているほど
玉の産地として有名で、昔から重要な交易品。
現在でも街中で販売店が軒を連ねており、
主力生産品となっている。
ホータンはウイグル語で「玉の町」という意味。
三蔵法師(玄奘三蔵)が中国へ帰国途中、
立ち寄った和田(ホータン)で滞在中に
当時の中国、唐の皇帝に書簡を送ったところ、
返事があり、周辺諸国に対し安全に対して
三蔵法師が問題なく長安に代えることができるよう
便宜を図るよう命じたといった内容が書かれていた。
その返事の内容通り、ホータン(和田)から
長安(今の西安)まで、難なく戻ることができたという。
民農(ニヤ)
民農(ニヤ)は古代の集落跡。
米蘭(ミーラン)と同じく、
イギリスの考古学者、
オーレル・スタインによって発見された。
東西文化の交流を示す品々が出土している。
特にカロシューティー文書が大量に発見され、
この文書の解読によって、
古代楼蘭王国の庶民生活が解明されつつある。
且末(チャルチェン)
且末(チャルチチェン)は
西域南道のオアシス都市の1つで
楼蘭を見つけたヘディンも訪れている。
郊外には、150を数えるお墓が発見され
現在発掘調査中の広大なザグンルク古墳、
イスラム教徒の地主荘園などがある。
若羌(チャルクリク)
若羌(チャルクリク)はオアシス都市で、
米蘭(ミーラン)へ向かう際の拠点。
2011年に楼蘭博物館がオープン
若羌(チャルクリク)周辺の遺跡の
資料や出土品が収蔵されている。
若羌(チャルクリク)の周辺には
新疆の三大遺跡である
楼蘭(ローラン)遺跡、米蘭(ミーラン)遺跡、
ニヤ(民農)遺跡がある。
米蘭(ミーラン)
米蘭(ミーラン)はかつてはオアシス都であった。
現在は廃墟とかした、都城址のミーラン遺跡がある。
この遺跡はイギリスの考古学者の
オーレス・スタインによって発見、研究がなされた。
ミーランで発掘された遺物から、
かなりの交易活動が行われていたことがうかがえる。
ミーランでは「有翼天使」の壁画が出土しており、
これにより、遠く古代ローマとの
影響関係が認められている。
シルクロード6へつづく・・・
明日香