5節句(ご節句)の1つ
5月5日の端午の節句の由来は
前回の粽(ちまき)の話でもふれた
屈原(くつげん)の逸話がもとになっています。
時は紀元前300年頃、
今からから2300年くらい前の、
中国の戦国時代。
中国の詩人で政治家の
屈原(くつげん)という人がいました。
楚の国の名門公族の出身で
詩文にも優れていたため
当時の楚の国の王、懐王の信任が厚く
賓客をもてなす左徒として
王に使えていたとのこと。
当時の楚の国は西にあった秦の国と
どのように向き合っていくかが
外交上大きな課題であり、
その方策は楚の国の臣下を
2分していました。
秦の国と同盟をむすび、
安泰な日々を目指そうとする親秦派と、
東にあるもう1つの国、
斉と同盟をむすび、
秦に対抗しようと考える親斉派。
屈原は親斉派のトップで、
秦の国は信用できないと懐王に進言するも
受け入れられず、懐王は秦の罠にかかり、
楚軍は大敗。
その後、秦の国は、懐王に婚姻話を持ち掛け、
秦に来るよう申し入れ、これを知った屈原は、
過去にやられたことを考えば信用できないと
懐王を諫めた(いさめた)にもかかわらず、
親秦派に勧められて秦に出向き
監禁されてしまい、
屈原も剛直な性格が災いし、同僚から妬まれ
また、軍隊の敗退や王が監禁されてしまうといった
事実が起こり、左遷となってしまった。
その上、秦によって楚の首都が陥落してしまい、
この事実に絶望した屈原は汨羅江(きべらこう)に
入水自殺してしまうのでした。
生前、屈原は愛国詩人として
国民から親しまれていたため、
彼の死を哀れんだ人々が供養のために、また、
亡骸が魚に食べられて荒らされないように、
もち米を粽(ちまき)にして
川に投げ入れるようになったのだとか。
こうした逸話から、
屈原が入水自殺をした5月5日、
彼の供養のために、祭りを行うことが、
中国全土に広がり、この祭りの日には
粽(ちまき)を川になげ入れ、
国の安泰を祈願するようになり、
この風習が、災い、厄、病気をはらう
宮中行事となっていったようで、
220年から280年頃の三国志時代、
魏(ぎ)の国では、旧暦の5月5日が
正式な端午の節句として
定められていたとのこと。
このようにして
中国で生まれた端午の節句は
日本には奈良時代に伝わっていったようで
つづく・・・
明日香