マルキヤ
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南蛮菓子・金平糖3(金平糖は高級品2)

前回からのつづき・・・

「金平糖」が日本で作られるようになったことは

1688年(元禄元年)に刊行された

井原西鶴による「日本永代蔵」の巻5

「廻り遠きは時計細工」を読むとわかるようです。

 

この話の中で登場する長崎の町人が金平糖を作って

大儲けするのですが、当初、中国人に金平糖の製法を

聞いても教えてもらえず、2年以上も苦労してやっと

製法を突き止め、「金平糖」を試しに作る記述があり、

その中で、製造方法についても触れています。

 

こうした記述は

この時代に「金平糖」を作っていたことが

うかがい知れる貴重な資料となっているとのこと。

 

このように、「金平糖」が日本で作られるように

なってはいましたが、

しばらくは庶民のお菓子ではありませんでした。

 

その理由は、

砂糖自体が貴重なものであったこと。そして、

「金平糖」をつくるには、砂糖を精製して、真っ白い、

上白糖を作る必要があるのですが、

この精製する技術がまだ確立されておらず、

上白糖は、なかなか手に入らない高級品でした。

 

その上、

当時の「金平糖」の製造は、思いのほか

手間がかかり、

 

天候、気温、糖分である蜜の濃度、

金平糖を作る窯の角度、温度、動かし方等、

体の五感を使って作る、一子相伝の技であったため、

作り方は門外不出。

 

一人前の「金平糖」職人になるのに、

「コテ入れ十年、蜜かけ十年」と言われ

合計20年もかかるとされていて、

大量生産ができなかったとのこと、

 

逆に言えば、美しい「金平糖」を作るには、

職人の熟練した技術が求められ、伝統的な製法で

作られる「金平糖」は、ある種芸術品ともいえる逸品

 

それゆえ、当然製造コストは上がり、価格も高い。

結果として、大名や、公家、高級武士など、地位の高い

選ばれた者だけが、特別な機会に、おめでたい席で、

かわした高級品ということになったわけです。

 

そんな高級品も時の流れと共に、その製法が

京都や江戸に伝わり始め、次第に町人にも親しまれる

お菓子へと変遷していきます。

 

それと同時に、

織田信長に献上された時、

「金平糖」は単なる丸い白い球形であったものが、

色彩豊かな角のある金平糖へと変わってゆき、

 

明治時代になると、

「金平糖」はぐっと庶民に近づき

一般家庭の、贈答用・来客用の高級お菓子へ。

 

そして、一層大衆化が進み

最終的には駄菓子の定番の1つ

となってゆきました。

 

ってことは、私の、「金平糖」は駄菓子、

という記憶は正しかったみたい・・・

 

つづく・・・

 

 

明日香